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​小林我塾
議論先導者:小林 和也(北海道大学 高等教育推進機構オープンエデュケーションセンター博士研究員)

小林 和也(こばやし かずや)

北海道大学文学研究科修士課程修了 修士(文学)。もともとの専門は哲学・倫理学(中でもミシェル・フーコーの権力論)。現在は学内の反転授業・オンライン授業のための映像教材制作に携わっている。また北大から配信する大規模オンライン講座(MOOC)の企画・運営を担当。業務上の研究分野は教育工学だが、業務を超えて哲学を用いた活動を模索中

 

大衆化とは何か  小林我塾第5回(2023/12/24)

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AI開発など、新たな技術を社会実装する際に生じうる、倫理的・法的・社会的課題(Ethical, Legal and Social Issues=ELSI)について考える必要があると言われています。新技術が社会実装された時、同時に進行しているのは技術やそれがもたらす可能性の「大衆化」であるとも考えられます。今回、お経から和歌、茶碗、写真、ラジオ、テレビ、ホルモン剤、インターネット、SNSやVRまで、古今の様々な思想・文化や技術の普及を、大衆化の視点から再評価してみたいと思います。大衆化において、我々が何を学び、あるいは忘却してきたのかを探求します。具体的には、提題者がもともと専門にしていたミシェル・フーコーの系譜学の方法論を基に、ベンヤミンの写真論やプレシアド『テスト・ジャンキー』などの考察を例に、以下のテーマについて深く考えていきます。

  • 思想や文化や技術が大衆化する際に生じる現象は何か

  • インターネット、SNS、VR、AIなど最新の工学技術は何を大衆化するのか

  • 我々は何をどこまで大衆化させるのか

などについて考えていきたいと思います。クリスマスイブですが、哲学サンタと聖夜の前に議論しましょう。 

 

言葉とは何か  小林我塾第4回(2022/07/18)

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我々は言葉を使ってコミュニケーションしています。このとき、「そういう意味で言ったのではないのに」とこちらの理解が誤解であると指摘される場合は多々あります。その言葉がどういう意味で使われたのか、私達は相手に確かめるまでわからないと言えるのかもしれません。反対に、自分のしどろもどろの説明に対し、他者が「それってこういう意味?」と整然と語り直してくれることで、「そう言いたかったのだよ!」となる時もあります。

 

しかし、言葉を言葉で説明したところで、説明のために使った言葉の意味は本当に伝わっているのでしょうか?では、我々は、このような状況下で、いかにしてコミュニケーション「できている」、互いに理解し合えていると言えるのでしょうか。今回の我塾では、我々が他者とコミュニケーションを取るための手段である言葉について以下のような問いを掘り下げたいと思います。

 

  • 相手の言ったことを完全に相手の意図した通りに受け取るには、どうすればよいか(言葉が含みうる意図を漏れなく学習することは可能か)?

  • いかにして言葉に関わる様式(文法、書式、制度等々)は権威づけられ、それらを教育することが正当化されるのかいるのか?

  • "論理的"とはどういうことか?

 

これらの問いについて、私が関わっているレポート執筆指導の経験(あるいは葛藤?)、言葉に関する哲学的言説を例にとり議論してみたいと思います。そこから詩、翻訳、新しく概念を作ることなどに話を発展させたいと考えています。 言葉やコミュニケーションについてなんらか腑に落ちない気持ちを抱えている人、言葉によらない思考に関心がある人、翻訳に興味ある人、あるいは「意味ってどういう意味?」と尋ねられた時に、どうしていいかわからない人などなど、今、あなたが読んでいるこの文章も言葉を組み合わせて作られているように、我々は誰しも言葉に関わっているので、より多くの人に来ていただければと考えています。

自由とは何か。大橋我塾〜立花我塾〜満島我塾を振り返りながら  小林我塾第3回(2021/10/24)

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今回は少し趣向を変えて、別なテーマにジョイントしながら、これまでのテーマを振り返ったり、関連する議論も行っていくことができればと思います。 先だって開催された大橋我塾での「研ぎ澄まさされた感覚」では、作品を受容する際にやはりたくさんの背景的知識を知る必要があること(それらを残すための措置も含め)、立花我塾では自己固有のものと考えられる欲望が、他者の欲望と関わっている機序についての仮説が検討されました。また満島我塾では、LGBTをめぐる議論の深まりと同時に、その歴史的展開におけるLGBT同士の「内ゲバ」めいた諸相を追うことで状況の複雑さを知ることもできました。 これら議論を引き続きつつ、「自由とは何か?」ということを論じたいです。 自由は哲学的には、特に行為や法哲学などにおいてかなり重要な概念ですが、昨今かなり相対的なものとして論じられているように見受けられます。また社会的には常にその制限が問題になります。今回、参加者の皆さんが思う自由の概念を議論の土台としつつ、私としてはスポーツにおけるルールの改訂をたとえに、何がそうしたルールの変更を担保し、正当化しているのか、またルール改変と技術の関係などを論じることで、最後には社会という(外部のない?)ゲームにおける自由について、再び論じたいと思います。

「政治」とは何か。小林我塾第2回(2021/04/18)
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この国では長い間、「政治」とは何かとか、「政治的」「政治的なもの」ということがわからなくなっている、はっきりと意識されていないのではないかと、敢えて問題提起したいと思います。デモを批判する人は、昨今のミャンマー情勢についてどう語るでしょうか? 難民を長い間留置することはなぜ許されているのでしょうか? 「右でも左でもない普通の日本人」は、その範囲を定めている点で十分に政治的じゃないのでしょうか? 政治ではないという触れ込みのもとで政治が進行しているとしたらどうでしょうか? これはつまり政治が分からないけれども、政治が存在していることはわかるという状況かもしれません。ここから政治を認識していくためにはどうすればいいか。前回の私の我塾での議論を引き継ぎつつ、方法として、政治と選挙の違いについて、意思決定の問題(また、その到達点としてロボットによる意思決定の問題)を論じたいと思います。

虚構と現実 小林我塾第1回(2020/11/07)

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ゲームをやりすぎたり本を読みすぎたり、フィクションに耽溺しすぎては虚構と現実を混同してしまうのでよくないと言われてしまいます。しかし虚構と現実を混同すると一体何がよくないのでしょうか。虚構と現実を分かつ時、一体何が起きているのでしょうか。その区分を設ける動機になっているのは、現実や虚構の身分の差そのものではなくて、そもそもあることをよいとして、あることを悪いとすることにあるかもしれません。しかし、もしそうだったとすれば、人は自分で予め現実(何がいいのか)と虚構(何が悪いのか)を分かっていたことになります。ではその区分はそもそもどのように決定されたのでしょうか?今回、何が虚構で何が現実なのか、また両者を混同すると何がよくないのか列挙することはやりません。むしろ

  • 言葉と幻想の問題=フィクションの中のフィクション的なもの

  • 一体何がこの区分を可能にしているのか?

  • この区分を設けることで何をやっているのか、何の役にたっているのか?

を皆さんと一緒に考えるということになります。

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