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​澁川我塾
議論先導者:澁川 幸加(中央大学文学部 特任助教/教育力研究開発機構 専任研究員

澁川幸加(しぶかわ・さちか)

澁川幸加 中央大学文学部特任助教 / 教育力研究開発機構 専任研究員
学びの時空間を再考することに興味があり、ブレンド型授業や遠隔授業、通信教育の実践的研究をしている。専門は教育工学、大学教育。2017年筑波大学情報学群情報メディア創成学類卒業。2019年京都大学大学院教育学研究科修士課程修了。2022年9月同研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。日本学術振興会特別研究員(DC2)を経て、2022年4月より現職。2018年International Symposium on Educational Technology “Best Paper Award”受賞。2020年日本教育メディア学会論文賞受賞。

公教育とはなにか Part2 澁川(×小林×鼓谷)我塾第8回(2023/09/30)

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前回、公教育とは何かで2時間議論しましたが、議論の途中で終わってしまった感がありました。特に貧困や格差との関係から、「公」や「公平性」など価値概念について考察する必要性を感じました。「いつでもどこでもひとりでも学べる時代」は本当に豊かなのか、そして最初に掲げられた「公教育として最低限何を担保すべきなのか」という問題を再考すべく、シュタイナー学校出身の鼓谷幹事が体験した「非一条校」での教育との対比から、再び公教育の機能や役割について、あるいはオルタナティブな教育の在り方について、みなさんと考えたいと思います。

 

公教育とはなにか 澁川我塾第7回(2023/08/28)

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近年では公私立ともに、多様な校舎・カリキュラム・教育方法を提供する学校や大学が登場しています。中でも近年は通信制高校および通信制大学の入学者数が増加しています。いつでもどこでもひとりでも学べる時代に、学校や大学で学ぶ意義は何なのでしょうか。一人ひとりのニーズがより複雑かつ多様化する中で、公教育として最低限何を担保するべきなのでしょうか。学校が福祉的な空間や機能を担うことと教育の質を保証することとのバランスをどのようにとれるのでしょうか。我塾では公教育の機能や役割について、みなさんと考えたいと思います。

 

我塾ブートキャンプ:問いを立てて話してみよう 澁川我塾第6回(2022/10/27)

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我塾の特徴は、議論先導者が抱く根源的な問いに、議論を通して暫定的な答へ接近することにあります。しかし、発散しがちな議論を収束させつつ、自らも答えのわかっていない問いへ、自分の価値をもってして答えを見出すことは容易ではありません。そのため、我塾で議論先導者になったり、議論に参加したりすることはハードルが高いと感じられます。
 

そこで今回は普段と毛色を変え、参加者の皆さんが内に秘めている素朴な問いや考えを起点に、より議論を楽しむための練習の場としての我塾を開催いたします。具体的には、前半に自らのモヤモヤを議論するための問いへ再設定する活動に取り組み、後半に誰かの問いを題材に議論を展開していただきます。特に、「語ってみたいが一人で回すのは不安」「語ってみたいが普段そのような機会がない」といった中学生、高校生、大学の学部生、社会人の方の参加を歓迎します。その後は友と語り合うも、我塾で登壇するも良し。限られた時間ではありますが、ともに問いを探究する主体となることを目指しましょう。

 

友達とはなにか?澁川我塾第5回(2021/08/22)

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人間関係の中に、「友達」と呼ばれるものがあります。友達は、年齢はもちろん、人に限定されず、ペットやぬいぐるみがその役割を果たすこともあります。普段は友達には話せないことを初見の美容師やタクシー運転手には話せるという人もいるかもしれません。一方で、「友達」というのはなんだかはばかられて、「知人」や「同僚」と呼ぶ関係性を思い浮かべる人もいるのではないでしょうか。「大人になると「友達」と呼べる人がいなくなる」という、寂しい言葉を聞いたこともあります。
また、コロナ禍で多くの生徒・学生は遠隔授業を余儀なくされました。特に大学生においては「友達ができない」ことが社会問題にもなりました。大学授業のやり方にもよりますが、毎週ともに学ぶ共同体は、少なくともそこには存在したはずです。しかし、画面越しに存在していると思われる同輩を、「友達」とよべるには至らなかったとも解釈できます。
どうやら、友達とは必ずしも頻繁に会う人や、相手が対話できることに限定されないのかもしれません。それでは、どのような関係性を「友達」とみなすのでしょう。我塾では、皆さんの経験をもとに、以下の論点を考えていきます。

  • 「友達」と「知人」を分ける境界はなにか?

  • 「友達」とみなす条件はなにか?

  • ペットやぬいぐるみは「友達」とみなせるのか?

  • 一方的に「友達」と認識することは、友達なのか?

  • 授業づくりや技術によって「友達づくり」を支援することは可能か?

 

オンラインにおける信頼とは何か?澁川我塾第4回(2020/07/12)

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新型コロナウイルス拡大防止に伴い,オンラインでコミュニケーションを取る機会が急増しました。オンラインでうまくコミュニケーションを取るための要因の一つに,信頼が挙げられると思います。オンラインで他者と信頼を構築するプロセスや信頼を構築するための条件・前提を検討することは,今後,オンラインと対面の共生を議論する上で重要です。そこで,今回は次のことについて議論したいと思います。

  • 私達はオンラインで何を手がかりに相手を信頼するのか?

  • オンラインで信頼するために適した情報量が存在するのか?監視されていると感じるか否かの違いには相手との信頼関係の質が関係しているように思われる。それでは,その質とは何なのか?

  • “オンライン仕草”が発達すると他者との信頼の構築は容易になるのか?

  • オンラインだと監視されているように感じてしまう原因は何なのか?

「わかる」とはなにか 澁川我塾第3回(2019/12/15)
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 私達が日常的におこなう「理解」には,段階があるといわれています。一般的に,文法や語彙を駆使して文章の言っている意味がわかるレベル,名前や機能は思い出せるけれどもなぜそうなるのかは説明できなかったり,学んだ知識を似たような問題でのみ適用できる浅い理解のレベル,知識の関係性を説明できたり全く違う文脈でも学んだことを活用できるほど深く理解しているレベル,はたまた勘違いをしたり「わかったつもり」のような,よくわかっていないときもあります。なぜ理解の深さに違いが現れるのでしょうか?そもそも,私達は何を意味あるものとして認識しているのでしょうか?

 今回は,以下の視点で,私達は何を「わかろう」とする対象として認識して,なぜ私たちは「わかったり」「わからなかったり」するのかについて考えたいと思います。

  • 入力した情報から「意味」のあるものをいかに取り出しているのか?

  • 「意味のあるもの」を判断する能力やセンスは育てることができるのか?他者から与えることができるのか?大人でも育てることができるのか?

  • どのようなときに「わかった」と思うのか?

  • 「わかった」と腑に落ちた感覚はなぜ起きるのか?それは深い理解なのか?

  • あとでよく考えると不十分な考えであったとしても,なぜ考えたり学んでいる瞬間に「わかった」と思うのか?

「わかる」とはなにか 澁川我塾第2回(2019/11/9)

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前回は、日常で感じる「わかる」「わからない」「わかったつもり」を整理した後に、わかることとはどのような状態かについて議論をしました。今回は引き続き「わかる」について、以下の論点で議論をしたいと思います。
 

  • どのようなときに「わかった」と思うのか?どれほどの種類の「わかる」に分類できるか?

  • 「わかる」の発生メカニズムはどのようなものか?

  • 表層的な理解にとどまる場合と深く理解する場合で、そのプロセスにどのような違いがあるか?

  • 人は1人で自分の理解を把握することができるのだろうか?他者からの評価を受けたり、たとえ1人のときもテストなどの道具を用いたりすることなく、自分の理解を確かめることはできるのか?

  • 「理解」は本当に存在するのか?類推・共感など他の認知活動や精神活動で構成されているだけか?

 

「わかる」とはなにか 澁川我塾第1回(2019/10/19)

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私達が日常的におこなう「理解」には,段階があるといわれています。一般的に,文法や語彙を駆使して文章の言っている意味がわかるレベル,名前や機能は思い出せるけれどもなぜそうなるのかは説明できなかったり,学んだ知識を似たような問題でのみ適用できる浅い理解のレベル,知識の関係性を説明できたり全く違う文脈でも学んだことを活用できるほど深く理解しているレベル,はたまた勘違いをしたり「わかったつもり」のような,よくわかっていないときもあります。なぜ理解の深さに違いが現れるのでしょうか?そもそも,私達は何を意味あるものとして認識しているのでしょうか?

 今回は,以下の視点で,私達は何を「わかろう」とする対象として認識して,なぜ私たちは「わかったり」「わからなかったり」するのかについて考えたいと思います。

  • 入力した情報から「意味」のあるものをいかに取り出しているのか?

  • 「意味のあるもの」を判断する能力やセンスは育てることができるのか?他者から与えることができるのか?大人でも育てることができるのか?

  • どのようなときに「わかった」と思うのか?

  • 「わかった」と腑に落ちた感覚はなぜ起きるのか?それは深い理解なのか?

  • あとでよく考えると不十分な考えであったとしても,なぜ考えたり学んでいる瞬間に「わかった」と思うのか?

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