
第7回小林(和也)我塾(2025年12月28日)
議論先導者:小林和也
《プロフィール》
株式会社TETSUGAKU代表。北海道大学文学研究科修士課程修了 修士(文学)。専門は哲学・倫理学(中でもミシェル・フーコーの権力論)。北大OECでの教育工学研究を経て、起業。哲学コンサルティング、セミナー運営などを行う。
https://tetsugaku-inc.com/
《テーマ》
「作品内作品とは何か?」
《アブスト》
未来思考学会幹事の小林です。北大で研究者をしていたのですが、株式会社TETSUGAKUを名乗って哲学の会社を始めてしまいました。北大発ベンチャーです。哲学者として歩み始めるにあたって、私は「終わり」の研究をしてみたいと考えていました。作品はどこで終るのか、何かを終わらせるには如何にしてそれは可能になるのか、など応用「終わり」研究が可能である一方で、いくつかの作品には「作品内作品」とでも呼べる、自己言及的な(例えば劇中劇)、あるいはジャンル横断的な(小説の中の歌)構造があることが見えてきました(私たち自身が終わりを体験していないという意味において、先行研究がそうであるように「終わり」研究はフィクションの研究をすることになります)。それにはアジア芸術の鑑賞法やフラクタルなものの美学が関連しており、ともすれば我々が忘却してしまっているのかもしれない日本的なものの美とは何であるかという問いをも惹起します。今回は作品やその鑑賞を規定する要素として「作品内作品」という単位・分節・観点が可能なのではないかということについて論じたいと思います。またその具体的な内容としては私の書きかけの芥川龍之介についての試論を概説する形ですすめ、芥川が述べるところの「話のない話」とはいかなるものなのか、作品内作品の限界としての「記述description」について、芥川龍之介と谷崎潤一郎の間にあったとされる論争を説き起こす形で話してみたいと思います。